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2006年10月31日

その日の前に・・・・・あなたは考えていますか?

『その日の前に』重松清著 文芸春秋社刊

ここの所バタバタとしているのですが、必要があって読書を・・・。ここの所、よく映画の原作として取り上げられる、重松清氏の作品。文藝春秋の別冊に2ヶ月おきに連載され、7編1年と2ヶ月にわたり書かれた作品。おおむねそれぞれが独立した作品ではあるが、最後の2編はそれまでの5編との関連性を持たせて書かれている。

印象深かったのは後半の3編かな。本の題名にもなっている「その日の前に」「その日」「その日のあとで」。ここで繰り返されている「その日」とは、愛する妻があの世へと旅立つ「その日」のこと。

主人公は44歳になる、結婚20年目の夫婦。去年の秋の検査で妻が、なおる見込みのない病気であることが分かる。子どもはまだ、中学生と小学生。淡々とした描写で、その日に向かって、一日一日と生活をしていく、家族。

こういった場面は、誰にでもいつかは訪れる場面。身の回りから、「死の影」が薄くなってしまった現代。歳を重ねる内に、だんだんとそういったことが気になり始めてくる。しかし、心の中の奥底にしまい込んで目を向けたくない、重箱の隅の問題。日々の喧噪に目を取られ、先送りにしてしまう内容。

どこかでこういった作品を読み、心の奥底の片隅にも、時々は光を当てなくてはならないのかもしれない。

その日の前に

2006年09月25日

日本人よ・・・・・!!  「日本沈没 第二部」

リメイクの映画がだめだったので、口直しにでも、と手に取ってみた本。書店で平積みになっていました。パラパラとめくると・・何となくヨサゲ。

日本が沈没し、世界中に散った日本人のその後の後日談。空想の上の空想・・いったい話しになるのだろうか?という、疑問を持ちながら読み始めた。

結構良かったですよ。一部の目的が、「日本人論」で有ったことを、小松左京氏が別の所で述べていましたが、辺境の地に追いやられた日本人が、極限の状況下で日本人らしさを発揮していく。日本人はどこの地にいても、日本人らしさを失わず、世界のために貢献していく。

前作が、高度成長期を迎えた日本人から安住の地を奪い、「おまえら、バブルに浮かれているけど、そんなので良いのか?」という、壮大なアンチテーゼであったに対し、今回は、「日本人は日本人なんだよ。」という日本人を励ます内容になっているのは、バブル崩壊後の先の見えない日本の、現代の時代背景を反映したものでしょう。

しかし、前作が「地球物理学」というなじみのない学問を私たちの前に提示してくれたのに対し、今回はあまり、科学の力というものは前面に出ていない気が。どちらかというと文系的な、社会学?。そういった意味では、「小松左京」的ではなかったのかも。

日本沈没第二部

2006年09月11日

街の力・・・・

夏の奈良旅行のネタで恐縮だが、私は見知らぬ街に出かけると、まず探すところがある。それは古本屋。その街が文化を保持しているかどうかの一つの指標が「古本屋」であるというのが、私の見方。

奈良の街は比較的小さな街で、少し歩くと街から外れてしまうほど、小さな街である。歩くのが好きな私は、奈良の街も、ガシガシと歩いてみた。駅前の繁華街をガシガシ歩いていると、目にとまったのが古本屋。以前であれば、出かける前に古書店を検索してから出かけたものだが、最近古書店に通うことが出来ないでいた。

こざっぱりとした、奈良の古書店。大概こういったすっきりとした、地方の古書店は、漫画本とエロ本とエロビデオと相場が決まっているが。あにはからんや、結構古書が充実している。大概がぶちまけられている、文庫本もきちんと整理してある。「これはきちんと探索しなくては・・・」と思い、あれこれ探していると、掘り出し物がありましたよw

お気に入りの詩人である「立原道造」の全集の内の一巻、角川書店版だ!状態は良くはないが、それほど悪くはない。値段を見たら、たぶんそれほど高くはない。(ここの所、あまり古本屋巡りをしていないので、相場が頭に入っていない 汗)

帰宅してから、ネットで検索を掛けたら、やはり相場の半額くらい。まああまり値段にこだわるつもりはないのだが。むしろ、眠っていた本に日の目を見せたという感慨の方が強い。1965年刊行の全集、角川書店が前の社長、角川源義氏であり、きちんと文学を行っていた時代。しかし、全5巻をそろえるのは至難の業だ。


こういう、良い本が眠っている古書店がある街は、文化がある。気がついてみると、ここには、「奈良女子大」・「奈良大学」がある。こんなに小さな街であるにもかかわらず、二つの大学がある。だから古書店も息づいていられるのだな。

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2006年07月15日

アキハバラ@DEEP   そしてアキバ

もう一年前のことになるだろうか、たまたま入った書店で平積みになっていた本。アキバを生活の場所としている、オタクたちの物語

あるサイトで出会ったオタクたちが、アキバの町で傷つきながらも、懸命に生きていくオタクたち。最近ドラマとしてテレビでも放映中、9月には映画も上映予定とか。

私とアキバとの出会いは古くて新しい。地元から都内まで通勤していた親父に連れられて、始めてアキバに行ったのは、たぶん小学生の頃の交通博物館だったと思う。新幹線の運転席を見たり、蒸気機関車の機関を見たり、あいにくその後テッチンになることはなかったが。それが私とアキバとのファーストコンタクトだった。帰宅途中ごみごみとしたパーツショップは何か宝の山のような不思議な光を放ってるように見えたw

その後私の中にアキバが浮かび上がってくるのは、比較的最近のこと。職場に新人が入り、彼のホームグランドであるアキバに連れて行ってもらったところあたり。アキバの町には***真理教なるものがあり、ショップの中には、「内閣室行き」と書かれた荷物があり、その意味が分かったのは、あの事件の後であった。

その後、PCを自作したりするにつれ、比較的頻繁にアキバに訪れるようになった。その後のアキバの変遷はただ驚くばかり。都内の掃きだめのようなアキバ。ゴミゴミとして路次裏通りにはまるであの世への入り口がぱっくりと開いているかのようなアキバの猥雑さ。きっと何人かは、神隠しに遭っているはず。

そんなアキバが新しい町へと変わろうとしている。電気街の様相は次第になりを潜め、アニオタの町としての様相もひょっとすると消えていってしまうのかもしれない。アキバの意味を知らない、熱血爽やか系兄弟(ちょい右翼)の、**都知事によって去勢され、爽やかな町に変わっていってしまうのかもしれない。この作品も何年か後には単なる昔話の作品となってしまうのかも。


道玄坂のガード下の古本屋が無くなり、戦後のアーケードのような街並みが、表舞台から遠くなり、裏の裏にまで入り込まないと、その原風景を見ることが出来なくなった渋谷。ひょっとすると、アキバもああなってしまうのかも。

p.s. 関東で「秋葉」といえば、「秋葉神社」の事を指す。どこの家の台所の柱にも、「秋葉神社」のお札が貼ってあった。火災よけのお守りだったのだそうだ。「秋葉様(アキバサマ)」などと呼ばれている。

実は、映画のエキストラにも参加してしまいました > 参照 汗
@deep.jpg

2006年05月03日

日本沈没 読みました・・・

何となく 『日本沈没』がどうしても読みたくなり、探して購入しました。(ナニゲに小松左京の本は売っていない。しかも最近の文庫本は高い・・汗)

久しぶりの小松左京でしたが、ドキドキ感は薄れていないことに感動しました。もう何十年ぶりになるのだろうか?ゆっくりと始まる物語・・・・・・。異変に気づいた田所博士・・・しかしなかなか物語は、核心に迫っていかない・・・。中心部をわざと避けて・・・じらすかのように・・・。そう・・・それは まさしく 男女の営みに似て・・・w

でもね・・・やっぱり 幼少の時の私とは 読み方が違っていましたよ・・・これを読んで科学者にでもなろうかと・・思ったあの頃とは。今の私には、この本は小松左京の政治家へのオマージュの様に映りました。ニッポンが本当の危機に陥ったときに政治家は果たしてこの本の政治家のように、危機管理をしてくれるのか?まあ危機管理とは各自でするべきもので人に頼るものではない気はするが。

現在の政治家も、先の大戦を経験していない世代。憲法修正が話題に載ってきているが、果たして彼らは国家百年の大計を任せられるのであろうか?先日後藤田正晴氏が亡くなった昨今 政治家とは何かを考えさせられた・・・

2006年03月30日

日本沈没・・・

この夏に、小松左京の「日本沈没」がリメイクされるそうである。それを受けて、コミックでも連載が始まっている。

私の小さな頃、小松左京氏の作品にはずいぶんと感動を覚えた。その初めが「日本沈没」であった。私たちが何不自由なく生きてきて、空気と同じように何の意識も持たない、この「日本」がある日突然、無くなってしまうというストーリー。偏屈な科学者「田所教授」。その田所教授だけが、日本の変化に気づく。しかし気づいたところで何もしようがない。しかし、博士自身としてもそのことが果たして事実なのか、また事実だとしたらどうしたらいいのか。迷い悩むうちにも事態は進行していく。画面にちりばめられた、科学用語。「ウェーゲナー」「大陸移動説」小さい私は、科学少年になってしまった。

小松左京氏の作品は、科学を取り扱う。その範囲は広範囲である。鳥インフルエンザが騒がれている昨今であるが、ウィルスを扱った「復活の日」。「バクテリオファージ」などという言葉を知り、生物学に興味を持ったのも、この作品である。先端の科学を分かりやすく取り上げるという点では「立花隆」氏が、現在ではあげられるかもしれない。(鳥インフルエンザは、実は深刻・・。まさに「アウトブレイク」状態が迫っている)

広範な範囲の科学的知識もさることながら、更に切り口が鋭いのが、小松左京氏のSF作家としての、イメージ力である。「果しなき流れの果に」という作品がある。高校生だった私にとって、そのイメージ力は、衝撃的だった。こんな場面である「有る考古学者が、古墳の中に石室を発見する。遠く太古の時代の石室のその壁の向こうから。電話のベルの音がしている」時空がねじれていて、タイムスリップした電話が、石室の向こうに閉じこめられ、さらに、時空がつながっていて、どこかの時代と電話がつながっているという。何となく分かりそうだが、何となく分かりづらい、そんな、読者の想像力を超えた想像力、それが小松左京氏の、SF作家としての真骨頂である。

「2001宇宙への旅」の最後の場面は、暗示的であり、今でも話題になる。「ブレードランナー」の原作者である、フィリップ・K・ディックなども、おもしろいが、イメージの切り口では、遠く小松左京氏には及ばないと思う。

しかし、最近小松左京氏の作品があまり読めない状況にあるのがさびしい限り。