残された言葉
今日お昼頃、職場の同僚から・・ってアナウンサー知っている?自殺したんだってさ。
ネットに入ってみると、話題になっていた。ずいぶんとおきれいな方、ブログもお持ちのよう。
亡くなった方ブログの、残された言葉の痛々しいこと。悲惨な結末の分かっている小説を読んでいるかのよう。しかし、これは紛れもない現実。ふと思い出したのが、私が高校生だった時のこと。たまたま、同じ時期に読んでいたのが、太宰治と芥川龍之介。文学史の知識として、二人とも自殺することは分かっていた。二人の、様々な作品をパラレルで読んでいた私。巻末の年譜を見ながら、多少の前後はあったものの、次第に両作者の終焉の作品へと近づく。死を前にした作者のピリピリとした言葉が読んでいる私には、とても痛々しかった。そんな経験を思い出してしまった。
けれど、この世に溢れている言葉の多くは、実は亡くなった方の言葉が大半であることは事実。この世の中をここまで作り上げ、支えてくれているのは多くの先人の「言葉」によってであることは、ごく当然のことである。
しかし、今日この時に、亡くなった方の、その残された言葉は、いかにせよ生々しい痛みを伴っている。そんな他者の痛みを、リアルタイムに近い形で知ることのできる悲しみ。ネットの社会はそんなことも可能にしてしまった。「君はディスプレーに涙することができるか」とあるネット評論家の方が言っていた。無機質な画面に向かって、感情移入できる社会がまもなく来るという論調だった。
こういった辛い言葉も、時間がたつにつれて、情報の波に押し流されて、片隅に追いやられていくのだろう。リアルワールドの人間の記憶が、新しい記憶に上書きされて、記憶の奥底に沈んでいくかのように。











